1Q84 Book3を読んで(ネタばれあり)
やっぱり村上春樹はおもしろかった。それが1Q84 Book3を読み終わった率直な感想。
1Q84の世界感と論理性、それを支える構成と言葉の選び方(隠喩)が特におもしろい。
細部にまで意識を巡らせれば、ほとんどの謎が確信をもって結論付けられる。その論理性は、感動に値します。絶対悪とか人間の見たくない部分がなくて味気なかったという評価もあるようだし、自分は文学的な評価を全く出来ないけど、緊迫感があって読みやすくておもしろかった。
仕事は全く違えど、設計することを担うものとして(時には)、どんな構成方法を使っているのか非常に興味が湧いた。ファンレターの形とかで、絶対に質問したい。
以下、言葉の選び方も上手くないし構成もがちゃがちゃだが、ざっとおさらい。----------------------------------------------------------------------------
物語は、幼い頃から孤独を感じ、独立して生涯を歩んできた3人を主人公にして語られていく。
Book1,2までは、同じ境遇でお互いが引かれ合っている天吾と青豆の視点での話だったが、Book3ではBook1,2では脇役だった牛河が物語の語り手として登場する。
彼も現実に対する乾き(孤独や欠落)を感じて生きてた人間で、自分の外見に対して異常なまでの劣等感を持っており、愛がないことが自分であると思っている。ただ、心の奥底では、現実に対して強く愛を求めており、フカエリのドウタ(心の影)に会うことで、自分の心の影を強く意識してしまう。そして、牛河の世界のレールは1Q84に入ってくることになる。
牛河が自分の心の影を見つめたのは、フカエリと見つめあった時だ。(P321)
「少女の視線に刺し貫かれた痛みは、まだ胸に残っていた。ひょっとしたら永遠に消えることはないのかもしれない。あるいはそれはずっと以前からそこにあったもので、俺は今までその存在に気付かなかっただけなのだろうか。」
その後、以前はあった暖かったであろう家庭を何度も思い出すことになる。
そもそも、1Q84が何かについてはBook2でリーダーによって明示されている。(P273,275)
「そう、1984年も1Q84年も、原理的には同じ成り立ちのものだ。君が世界を信じれば、またそこに愛がなければ、すべてはまがい物に過ぎない。」
「光があるところに影がなくてはならないし、影のあるところに光がなくてはならない。光のない影はなく、また影のない光はない。」
また、天吾も1Q84について言及している
「深い孤独が昼を支配し、大きな猫たちが夜を支配する町のことだよ」
天吾と青豆が1Q84にやってきた理由もリーダーによって明示されている(Book2 P280)
「それがどうしてだか、君には分かっていないらしい」
「極めて簡単なことだ。それは君と天吾君が、互いに強く引き寄せあっていたからだ。」
そう、天吾と青豆も現実に孤独を感じ、お互いに愛を求めて1Q84に入ってきた。それは自身の心の闇(1Q84ではドウタと呼ばれている)にあった希望だったのだ。
青豆は首都高を降りたことによってであり、天吾は小説を書いたことによってである。前者はBook2でリーダーから告げられており自なので割愛するが、後者はBook3で天吾の意識として書かれている(P57)
「原稿用紙に向かっているあいだ、彼の意識はその世界で暮らしていた。万年筆を置いて机を離れても、意識はまだそちらに留まっていることがあった。そういう時は、肉体と意識が分離しかけているような特別な感覚があり、どこまでが現実の世界でどこからが架空の世界なのか、うまく判別できなくなった。きっと「猫の町」に入り込んだ主人公もそれに似た気分を味わったのだろう」
また、天吾の父も孤独であり、希望を求めているからこそ1Q84に出現したのだろう。
青豆も1Q84について認識を深めていく(P330)
「なんだか、他人の夢を見ているみたいな気がする。感覚の同時的な共有はある。でも同時であるとういのがどういうことなのかが把握できないの。感覚はとても近くにあるのに、実際の距離はひどく離れている」
また、中野あゆみも青豆にこう言っている(P220)
「私に言わせればね、青豆さん。この世界って理屈なんか全然通ってないし、親切心もかなり不足している」
主人公たちは、1Q84では原因と結果の論理が通用せずに、現実を受け入れ、そのルールを少しずつ理解していく。
また、希望についてのタマルの言葉もおもしろい(P49)
「希望のあるところには必ず試練がある」
そして、天吾の父も老婦人も、小松さえもゆっている(P275,280,297)
「人は受け取ったものの代価を支払わなくてはなりません。」
それが、天吾と青豆が望んでいる希望を手に入れる為には、1Q84という試練をこえていかなければならない。その試練を乗り越えない限り、希望は現実にならないことを暗示している。
ただ、天吾も青豆も1Q84のルールが分かっていなかった(P297)
「そうかもしれません。しかし何が大事なもので何が代価なのか、区別がうまくつかないんです。あれやこれや、あまりに入り組んでいるから」
それでも、引かれ合っているという希望を基に、二人は少しずつ前に進んでいく。
話は逸れるが、天吾も青豆も牛河も形は違えど優れたレシヴァだと思う。だからこそ、心の闇(ドウタ)を認識することが出来たし、だからこそ1Q84に入ってきたのだと思う。
牛河が優れたレシヴァであることは、この意識からも読み取れる。
「しかしこの少女は森の奥に生きる、柔らかな無言の生き物だ。魂の影のような淡い色合いの羽を持っている。」
つまり、フカエリを心の影(ドウタ)として認識していたことが分かる。
青豆が妊娠した要因は不明だが、そのドウタを介して、組み合わせの異なるパッシヴァとレシヴァの二人が交差して、出口と入口が変わる強い因果が起きたのだと思う。
ただ、牛河は自分の心の闇を、内なる希望を求めず、声を聞けなかったために死ぬことになる。
その暗示も物語中にふんだんに散りばめられている。
青豆は『シンフォニエッタ』を自身に必要なものとして知覚している
「ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』の入ったカセットテープを手に入れなくてはと青豆は思う。〜あの音楽は私をどこかに−特定はできないどこかの場所に−結びつけている」
その反面、牛河は『シンフォニエッタ』に接触するも認識することを避けてしまう( P258)
「ヤナーチェックの『シンフォニエッタ』という曲名にはどこかで聞きおぼえがあった。しかし、どこでだったかは思い出せない。思い出そうとするとなぜか視野がぼんやりと曇ってきた。〜牛河はあきらめてラジオのスイッチを切り、〜」
また、どこに書かれていたかは定かではないが、牛河は自分のことを猫と表現していた。
その猫について、安藤クミの言葉も暗示的だ(P487)
「でもね、天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい」
妊娠しているのが天吾の子であることを意識し、青豆は自分の生きる意味を強く意識する(P93)
「これが生き続けることの意味なのだ、青豆はそれを悟る。人は希望を与えられ、それを燃料とし、目的として人生を生きる。希望なしに人が引き続けることはできない。しかしそれはコイン投げと同じだ。表側が出るか裏側が出るか、コインが落ちてくるまではわからない。」
そして、天吾も青豆と二人で帰ることを強く感じ始めている(P248)
「二つに割れたコインがそれぞれあとの半分を求めるみたいに。」
コインがもう片方を求めるという元ネタは分からないが、青豆の語りと合わせれば、割れたコインが合わさらないと、表も裏も出ないということが導き出される。
そして、安藤クミとの出会いが天吾の歩みを加速させる (P176)
「天吾は彼女の誘いをきっぱりと断らなかったことを後悔した。でもそれと同時に心の隅では、自分が避けがたくここに運ばれてきたのだとも感じてもいた」
安藤クミは天吾を導きによって、天吾は後ろ髪引かれながらも未来をみるようになる(P184)
「夜が明けたら、天吾君はここを出ていくんだよ。出口がまだ塞がれないうちに」
一方、青豆は自身のドウタ(心の影)と更に向き合っていく(P475)
「私は誰かの意思に巻き込まれ、心ならずもここに運び込まれたただの受動的な存在ではない。たしかにそういう部分もあるだろう。でも同時に、私はここにいることを自ら選び取ってもいる。ここにいることは私自身の主体的な意思でもあるのだ」
そして、希望を信じてつき進む(P531)
「これからはこれまでとは違う。私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない。これから私は自分にとってのただひとつの原則、つまり私の意思に従って行動する。」
それでも、まだ謎は多い。なぜ教団はフカエリを探さないのか(マザがいるからいいのか、マザが失われてしまっておりドウタも意味をなさないのか)、父と母と天吾の関係、母・年上の彼女・安藤クミの関係(全て同じだと感じているが)、リトルピープル(=大きな猫?)とは、等々。
それでも、安藤クミは言っている。
「たぶんそこには死んだ人にしか正確には理解できないものごとがあったんだよ。どれほど時間をかけて言葉を並べても説明しきれないことが。それは死んだ人が自分で抱えて持っていくしかないものごとだったんだ。大事な手荷物みたいにさ。」
「でもね、天吾くんは暗い入り口をこれ以上のぞき込まない方がいい。そういうのは猫たちにまかせておけばいい。そんなことをしたってあなたはどこにも行けない。それよりも先のことを考えた方がいい」
つまり、数々の謎は1Q84に置いて、新しい世界では前を向いて生きて、と。
青豆さんもいっているように、過去に縛られず未来に生きていく必要があるのだ(P593)
「辿り着いたところが旧来の世界であれ、更なる新しい世界であれ、何を怯えることがあるだろう。新たな試練がそこにあるのなら、もう一度乗り越えればいい。それだけのことだ。少なくとも私たちはもう孤独ではない。」
時には近くに、時には遠くにある。それが、人の人との心の距離(P533)
「遠くまで行くとあんたは言った」「どれほど遠くなのだろう?」
「それは数字では測ることのできない距離なの」
「人の心と人の心を隔てる距離のように」
世の中は原因と結果の論理では簡単に説明できないことが多い。その中でも、希望を失わず、望みを信じて生きなければならないのだ。
と。
そして、そこでは決して測れない人と人の心の距離がとても重要だ。
と。
そんなことを言われたような気がしました。
長くなりましたが、このへんで。
ではでは。